三線よ、もう一度、世に出ろ。
- 上江田武信
- 6月11日
- 読了時間: 4分

沖縄の風が吹く朝、私はまた三線の前に立つ。
67年生きてきて、好きなものがある人間は強いと思う。 私にとって、それが三線だった。
寝ても覚めても、三線のことを考えていた時期がある。 うまいとか下手とか、そんな話じゃない。 あの音が、沖縄の空気が、たまらなく好きだった。
それがいつの間にか、日常の忙しさの中に埋もれていった。 農園の仕事、山羊の世話、バナナの収穫、SNSの発信——やることは山ほどある。
でも三線は、ずっとそこにいた。 私が忘れかけても、三線は待っていてくれた。
50歳から始めた三線が、私の心を救った。

三線を始めたのは、50歳のときだった。
それまでの30年、私は沖縄を離れて大都会で生きていた。 仕事、競争、数字、結果——都会はそういう場所だった。
気づかないうちに、心が固くなっていた。 自分でも気づかないほど、静かに、じわじわと。
そのことを教えてくれたのが、三線だった。
三線を手にした瞬間、何かがほどけた。 沖縄の音が、30年間忘れていた自分の柔らかい部分を、静かに呼び覚ました。
都会を離れて初めてわかった。 沖縄の優しさと温もりが、どれほど深いものだったか。
ふるさとの音は、魂の奥底まで届く。 三線はそれを、音で教えてくれた。
下手でもいい。楽しさを全力でアピールしていた。
あれは今から17年前のこと。
私は三線をYouTubeに投稿し始めた。
当時、三線をYouTubeに上げている人は、ほとんどいなかった。 それでも私は迷わなかった。
うまくなってから発信しよう、なんて思わなかった。 うまいかどうかより、楽しいかどうかが全てだと思っていたから。
下手でもいい。 恥ずかしくても関係ない。 この三線の楽しさを、この沖縄の音の喜びを、思いきり世の中に届けたかった。
今思えば、あの頃の私は無謀だったかもしれない。 でも、あの無謀さがなければ、今の私はいない。
始めながら発信する。発信しながら成長する。
これが上江田武信の生き方です。 50歳も、67歳も、変わっていない。
本物の三線は、沖縄にある。
三線を再び世に広めたいと思ったとき、私には一つだけ譲れないことがあった。
沖縄の素材にこだわること。
観光土産の三線でもない。 量産品の三線でもない。
沖縄の土地が育てた素材、職人の手が生んだ響き、そして現場を歩き続けた人間の目で選び抜いた三線。
それ以外は、売りたくない。
なぜか。
三線は楽器である前に、沖縄の心だからです。 その心を、妥協した形で届けたくない。 受け取る人が、本物の沖縄を感じてほしい。
だから私は、素材にこだわる。 職人にこだわる。 一本一本の音にこだわる。
二本目を探しているあなたへ。
最初の一本を手にしたとき、あなたは三線の入り口に立った。
弾けるようになった今、きっと気づいているはずです。
もっと深い音が欲しい。 自分だけの音が欲しい。
その感覚が芽生えたなら、あなたはもう次のステージにいます。
初心者向けの三線は、世の中にたくさんある。 でも私が届けたいのは、音を知った人が次に出会うべき一本です。
県外からの問い合わせが、後を絶ちません。 「やっぱり沖縄で選んだ三線は違う」 そう言ってもらえるたびに、この仕事をやっていて良かったと思います。
全国どこからでも、相談してください。 あなたの次の一本を、一緒に探します。
山学校沖縄市場、間もなく開店。
今、ホームページの完成が近づいています。
山学校沖縄市場では、三線の販売をはじめます。
商品はすでに揃っています。 沖縄産の素材にこだわった、選び抜いた三線たちが、あなたを待っています。
サイト公開まで、もう少し。
でも、待てない方は今すぐ声をかけてください。 三線の山学校が、あなたの次の一本を一緒に探します。
三線よ、もう一度、世に出ろ。
67歳になった今、私はもう一度三線を世に広めようとしている。
50歳で三線に救われた。 17年前、誰もやっていなかったYouTubeで発信し続けた。 30年離れた沖縄に戻り、農園と山羊と三線と共に生きている。
遅すぎる挑戦だと思う人もいるかもしれない。
でも私は知っている。

好きなものを持っている人間に、遅すぎることはない。
寝ても覚めても好きだった三線。 その想いが、誰かの心に届く日を信じて、今日も私は三線の前に立つ。
沖縄から、全国へ。 山学校沖縄市場から、あなたへ。
三線の物語は、まだ始まったばかりです。
上江田武信 三線の山学校・ピースフルファーム 山学校沖縄市場 間もなく公開


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